カテゴリ:私の話( 31 )

最近、母とテレビの情報番組を見ていたた時に何度か、

「ああ、私は小さい頃、母のこういう言葉に哀しくなっていたんだな…」

と改めて気づくことがありました。


それは、伝えられる隣国の様子を聞いて「あんな国に生まれなくてよかったわ」とか、

映し出された震災後の東北の町の様子を見て「ここ(埼玉)は海がないから安心だ」とか、

そういう言葉でした(別に、私に向けられる暴言というわけではなく…)。


もう呆け始めている老人の言う言葉なので、ひとつひとつ咎めたり窘めたりすることもないですし、母は別に悪い人ではありません。


野良猫の暮らしを気に掛けるし、傷んだ植物の世話をして復活させるし、困った人が目の前に居たらなんとかしようと動くでしょう。「善良なちゃんとした人」です。


ただ、物理的、精神的に自分から遠いところにある人や場所のことを、想像することが出来ないだけです。


でも私は子どもの頃から 母の視野や物の考え方や時に無神経な言動に気づいていて、今思えば、それらがいちいち哀しかったり痛かったりしたのだと思いました。


無垢、とか、無神経、は、子どもが親のそれに気づいても どうしようもないですから、当時はそういうものか…と受け入れていましたし、逆に自分の感受性や共感能力を、めんどくさい困ったものだと思っていましたが…。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



昨晩はひとりで、録画されていたあるテレビ番組を見ました。

息子が「君の名は。」や「新海誠監督」をキーワード入力していたために自動録画されていたニュース番組だったんですが、

その中で新海監督は、『君の名は。』の起点になったのは、じつは 震災の後に訪れた名取市の閖上地区、というお話をされていました。


被災地で実際に暮らしていらっしゃる方々の感じたことを自分自身が分かるわけでは全くない。

それでも 『君の名は。』 は、"何かを取り戻す映画" にしたいと強く思った。


「ここは自分の町であったかもしれない」、「自分はここで生まれ育ったかもしれない」

「もし自分がここにいたらどうしただろう」、「もしも自分がここにいたあなただったら…」と思った。

その強い思いが、「もしも自分があなただったら…」という入れ替わりの映画を作ろうという気持ちに繋がった。


そう語ってらっしゃいました。




上に書いた母の "正直な" 言葉と、新海監督のそんな感性や眼差し。


どちらも、私の インナーチャイルド を刺激しました。


いまだに 「リトルあかり女の子」 は、 感じ、 学んで、 成長しているのだなぁと思います。




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Photo by David Shub





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by kktreasure | 2017-03-15 08:05 | 私の話 | Comments(0)

小学校5~6年生のとき私は、近所のお宅へ英語を習いに行っていました。


両親は教育熱心でもなんでもないのですが、近所の方がうちの母に

「この度アメリカから帰国されたHさんというお宅の奥様が、英語を教えてくれると言ってるから、あかりちゃん、うちの娘と一緒にどう?」

と声をかけてくださったことがきっかけでした。


そのHさんというご婦人(当時40代かな?とても上品な方でした)は、我が家の近くに家を建てて、イギリス人のご主人とお子さんたちと一緒に住み始めた・・・ということでしたが、

庶民の子・あかり(10歳)は、初めて訪ねたときから毎回、その「イギリスの上流」が匂ってくる建物や暮らしぶりに、衝撃と感動で舞い上がっていたものです。


H家は大きな洋館で、レッスンを受ける部屋には暖炉があって、

素晴らしく掛け心地のよい椅子に座らせてもらって、

いつもテーブルの真ん中にはアレンジされた生花が飾ってあって、

洋書がたくさん置いてあって、絵本も美しい外国のもので、

出していただくお茶は、丸いガラスのポットの中で茶葉が跳ねながら色づいていく紅茶や、時には不思議な匂いのする棒(今思えばシナモンスティック)を入れて掻き混ぜてみて、と促されるコーヒーで、

ワークを済ませて別室で待機している先生を呼ぶときは 美しいベルを鳴らすしくみで・・・ベル


英語は、会話も教わりましたが、その後中学校で使うことになるテキスト 「New Horizon」 も使われました。 H婦人は、「This is a pen なんて言う機会はおそらく、一度もないと思いますけどね・・・」 と苦笑してましたけどね。


そんなお宅へ、私と、友だちのユカちゃんは、英語と 欧米の文化 を毎週2回、教わりに行ったんですね。

夢のような時間でした ラブラブ



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



なかでもクリスマスについては、ほんとに感動が大きかったです。

暖炉の脇に置かれた大きな本物のモミの木にオーナメント(我が家のツリーは、小さな作り物でした)、壁には「アドベントカレンダー」なるものが掛けられていて、それは、12月1日から24日まで毎朝、その日付の窓を開けていくのだという・・・

もう、ちびまる子ちゃん的なリアクションになって目が潤んだ気がします。




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↑↑↑

こういう、数字の所をめくっていくやつです☆




クリスマスパーティーでは、英語でクリスマスを歌うレコードがかけられ、赤くて太いローソクに火が灯されていて(仏壇や災害時用の白いのしか見たことがなかったからビックリ)、

いただいたケーキも、今は当たり前に食べますが、当時は珍しい "生クリーム" を使ったものなんですよね ケーキ

我が家のはバタークリームとかいう不味いやつでしたから、この世にはこんなに美味しいものがあるのかと感激しました(笑)


そして何より、クリスマスって何なのか、クリスマスはどう過ごせばいいのか、マインドの問題として大事な事を教わったことが、すごく幸せなことだったと思います。


この季節になると今も思い出す、H婦人のお家の話でした クリスマスツリー




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by kktreasure | 2016-12-22 08:31 | 私の話 | Comments(0)

動悸や息切れが気になって受診し、トレッドミル運動負荷試験を受けました。

心電図、血圧をモニターしてもらいながら、段階的に速くなったり坂になったりするベルトコンベアの上を歩いたり走ったりして心臓に負荷をかけ、安静時には分からない狭心症や不整脈などがないか、調べるものですね。



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(画像お借りしました)



結果的には大したことなかったので良かったんですが、"走らされ、走れなかった自分" に少々気落ちしてしまいました。


私は中学生の頃まではほんとに俊足でした。

近年の 大きな私 しかご存じない方は笑うと思いますけど、埼玉県では最も速い、という時がありました。短距離も長距離も。


だから「走る」と言われると反射的にアドレナリンが出始めると言いますか、なんか燃えてしまうんですね。


ドクターの事前説明でも、当日見た検査室の壁の注意書きにも、「体力測定ではないので無理をしないでください」とあったのに、いやいや、頑張らねば!見事に走り切ろう!みたいに意気込んでみたりして・・・(苦笑)




で、どうだったかというと、ちらりよぎっていた不安のとおり、まるで走れなかった。予想以上に走れなかったんです。

早々と息が上がってしまい、90秒ごとに加速されていくんですが、ベルトコンベア部分が ぐいーんと上がって傾斜がついてからはもう・・・あせる


よく、子供の運動会で張り切って走って転倒するお父さんがいますけど、あれです。昔の体の感覚に脚が付いていかないという・・・

たぶん情けない滑稽なフォームで走ってたと思うんですけど、それより、予定されてた時間を走りきれなかった。


ドクターの「まだイケますか? 大丈夫ですか?」の問いに「もうダメですショック」と申し出たところで、停止ボタンが押され終了に・・・ ダウン


心臓については軽度の症状は出たものの一応異状なしで終わったのに、なんだかブルーになってしまいました。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



じつは「私と運動」は、昔、自身の親子問題に取り組んだ時に、何度も扱ったテーマでした。


私の両親は、自分たちの希望、夢のために(もちろん、そうは言わず、「お前には才能があるのだから・・・」と言いました)、私にアスリートとしての進路しか認めない・・・ということが高校受験の時にありました。


私はたくさんの学校からスカウトされたにもかかわらず反抗してそれらを無視、親の意向に従わず勝手にしたわけなのですが、以来私は父親から数年間無視され(←父は私を懲らしめていたつもりかもしれませんが、要は拗ねてたわけです)、父が病気になった時も母親から「おまえがお父さんの夢も希望も奪って悲しませたから」と言われ・・・


あれはほんとに傷ついたなぁと今でも思います。




でもとにかく私は、自分の運動能力という価値を親のために差し出すことは拒否しようと思ったし、得意だったスポーツから、意識的に遠ざかって(ありとあらゆる運動は極力避けるようにして)年を取ってきてしまったんですね。


・・・・・で、この度のトレッドミル検査です。


誰でも年を取れば徐々に走れなくなるものですけれど、私は、まさかここまで走れなくなっていたとは・・・と驚き、落ち込んだわけです ショボーン




「子どもの頃は走るのが大好きだったな・・・」


「息を吸って、息を吐いて、筋肉としゃべるようにしながら、風とか陽射しを感じながら、気持ちよく走ってたな・・・」


「もう二度と、あの感覚は得られないのだな・・・」


そんな哀しみが、ちょっと込み上げてしまったトレッドミル運動負荷試験でした。


これからはせめて、てくてく、ずんずん、歩こうと思います もみじ



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by kktreasure | 2016-12-16 07:55 | 私の話 | Comments(0)

大学時代にパブでアルバイトをしていた時の話です(もう30年以上前になるのだな、と我ながら驚きます)。

そのパブは、120席ほどある大きなお店で なかなかの高級店でしたが、景気の良い時代でしたので、毎晩たくさんのお客さんで賑わっていました。週末は必ず満席。

気合いを入れてたくさん稼いでいる専業のホステスさんに混じって、大学生だった私も頑張ってましたね。ほんとに毎日が楽しかった音譜(親は呆れ、嘆いていましたがあせる)。

「花の女子大生」なんて言葉の流行っていた時代でしたから、大学生だというだけで人気があり、チヤホヤされて良い思いをしたり、自分の無知を思い知らされて凹んだり、常に競い合っている女たちの闘いというものに巻き込まれて こっぴどい目に遭ったり……

またとない、忘れられない経験をたくさんしました。

お酒のこと、接客について、酒場という場所のこと、闇の世界、男ってもの、女ってもの、男女のこと……、ほんとに勉強になりました。

一流企業といわれる会社の方たちがたくさん利用するお店だったのですが、そういうお客さんたちからは、ためになるお話を聞かせてもらったり、ときには 「早く(勤務を)上がって勉強しなさいよ」 「就活はどうなってるんだ?」 とお説教されたりもしました。


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そんなお客さんの中に、誰もが知っている大きな会社の役員だった クロダさん というおじさんがいました。

俳優の渡辺哲さんにそっくりな風貌で、お話が面白くて優しいのでホステスたちからも大人気の人でした。


↓↓ 渡辺哲さん

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そのクロダさんがある日、席に私と二人になったときにしみじみと言ったことがあります。



あかりちゃんって、長女でしょ?

学校でも何処ででも、○○長と名の付くものは何でもやることになっちゃうでしょ?


あかりちゃんは、みんなのお姉さん、みんなのお母さんになっちゃうよね、どうしてもね。

その圧倒的な包容力と母性を、損だなんて思わず大事にしなきゃいけないよ。

いつか、それを使って仕事をしていくことになるんだからね、天職ね。


でもね、お姉さん的なところやお母さん的なところを出してる限り、

引き寄せられて来るのは幼稚な男だよ。

あかりちゃんはそういう男に求められることで満足してちゃいけない。


あかりちゃんは 自分の中にある「女の子の部分」 を引き出してくれる男と出会わなきゃね。

自分を女の子にしてくれる男、ね。


これ、憶えておくといいよ。



当時は、その言葉の重さをまだ理解していなかったし、「はーい」と返事をしただけで話はそこで終わってしまったのですが、これは、今でも忘れられずに心に残っている言葉です。

いま思うとクロダさん、大事なこと言ってくれてたなぁ……

酔っ払ってホステスたちを笑わせてばかりいたけど、じつはそんなふうに、一人一人を見抜いて接してくれていたのだなぁ……




”しっかり者の長女”のお客さんとお話ししていて思い出した、クロダさんの言葉です宝石赤



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by kktreasure | 2016-11-04 08:10 | 私の話 | Comments(0)


20年ほど前になりますが、私、掃除婦をやったことがあります。
心に嵐があった頃で、デスクワークでない、人と話さずに黙々とやれる仕事をやりたくて。

携帯電話の部品を作っている小さな会社の 事務所や役員室のお掃除 で、掃除の仕事そのものも楽しかったですし、"誰からも見えていない" 掃除婦ならでは・・の潜入ができたおかげで、働く人や人間関係のウォッチングが面白かったです。

掃除婦は見た。ですね。



憐れまれたり蔑まれたりする感じを体験するのも新鮮でした。

ははー、人って「お掃除の人」をこんな風に思い、扱うんだな、って。



ある日、床の汚れを取ろうとひざまずいて作業していたときなんですけど、事務員の女の子(20歳そこそこ)に頭上から声を掛けられました。

「郷家さん、これどうぞ」

見上げると、スーパーのサッカー台にあるロールになったビニール袋に洋菓子を入れたものをぶら下げてまして、

「これ、ヨックモックっていうところのお菓子なんですけど、美味しいのでお子さんにどうぞ。喜ぶと思いますよ」


と言うんですね。

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画像、YOKU MOKUさんのサイトからお借りしました


めっ、恵んできたーーー(笑)

掃除婦なんかしてる人は、ヨックモックのお菓子なんて知らないでしょうけど??(゚ー゚;



ありがたく頂戴しましたけど、家族や友人に言ったら、大笑いされましたね。

以後「ヨックモック事件」として語られました。

大きな会社でみっちり教育され鍛えられた私からしたら、その若い事務員さんの仕事のしかたは、なんだったら指導したいレベルのものでしたけど、とにかく憐れまれ馬鹿にされていました。ゴム手袋してる掃除婦ですからね、まさか "何かと達者な人" だとは思いませんね。



でも、そこの会社の社長さんとその奥様は違いました。
社員、関係者、皆のことを大事にされており、掃除婦であった私のことも、とても丁寧に扱ってくださいました。

他の社員さんは私への「おはようございます」は適当でしたが、社長さんご夫婦は、私にも笑顔できちんと挨拶をされ、ひと言ふた事必ず話しかけてくださいました。

また、しばらくすると私の経歴を聞いて、掃除会社の方にはこちらから話をするから、これからは掃除ではなく事務の仕事で来てくれないか、とおっしゃいました。

「お掃除されてる姿と、ちょっとお話しした感じから、あれ?もしやこの人は・・・」と思ったのだと・・・。(有難くお断りしましたが)

小さいけど優良な会社を経営するこの社長さん、上品で感じの良いご挨拶といい、人を見る目の鋭さといい、違うなぁ・・・と思ったものです。



昨日、デパ地下でヨックモックの売場を目にして、くすりと懐かしく思い出した、掃除婦だった時のことです
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by kktreasure | 2016-07-29 07:55 | 私の話 | Comments(0)


私の母は、東北の雪深いところで生まれ育ち、中学卒業と同時に奉公に出た・・・という “おしん” を地で行く人なのですが、忍耐強い、内気な人です。非社交的。

気持ちや考えを述べたり、大事な事を人に伝えたり・・・ということが苦手です(苦手というより、そもそもそういう習慣が全く無いです、搾取されまくっても文句を言わないタイプ 笑)。

だから私も小さい頃は、他人に思ったことを伝える とか、知らない人とも気楽に交流する とか、そんなことは “ありえないこと” 、とてつもなく難しいことだと思っていました。

「(親から)教わってないから知らないよ」「無理、無理。できない。どうしよう・・・」という感じでした。

でも、そういう面については、学校生活の中で、そして社会へ出て、だんだんと芽を出し、伸びて、発展していきました。なるように、なった。

母にしたら、「いったい、この子は何なのだろう」「どうして誰とでも気安く話すんだろう」「なぜに毎度毎度、班長、級長、部長・・・と、グループがあれば必ず『長』になってしまうんだろう」「ああ、いやだ。ああ、おそろしい・・・」という感じだったと思いますが・・・(実際、心配されっぱなし、嘆かれっぱなしでした)。

・・・以上、そういう点が、私が 母から習わなかったこと



だけど、あの 母の姿から習ったこと もあったのだよな、と最近思います。

たとえば、暮らしの中、絶えず創意工夫をするところ。

繕い物、縫い物が得意です。各種手仕事が上手かな。

それから、
萎れた草花、捨て猫、病気やケガで困っている人・・・目にしたそういう対象を、決して放置せず、尽くし、守ろうとするところ。

根気よく、誰か、何かの面倒を見る・・・というような機会があると、私は最近、あぁこういうところは母がしていたようにしているのかな、黙々と世話をするのが苦じゃないのは母譲りだな、と思います。


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若いお客さんの中には、「私は母から、何もしてもらってない」「母のせいで人生が困難だ」と言う人がいます。結構、います。

でも、「もらえなかった」とわざわざ言うものは、実は自分がもともと持ってます。
芽が出てなくて気づいてないかもしれないけど。

そして、「もらっている」ものの中には、害になってるもの も勿論あると思うけど、人生を支えていく「武器」であり「宝物」であるはずものも、必ずあると思います
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by kktreasure | 2016-07-10 12:10 | 私の話 | Comments(0)

このところ、いつになく心が大掃除を欲していました。

有形無形の「もう必要なくなったもの」を見つけ出して捨てたくなっていました。
無意識でしたが、昨日の「新月」に向かって・・・ということだったのかもしれません。

スペース(家も心も)をスッキリとさせて、そこに新しい「出会い」を呼び込みたい、という思いが強まって、せっせと断捨離に励んでいました。



その中で今回は、"もう二度と着ない(着たらコワい 笑)とわかってるくせに高価だったばっかりに捨てられずにいた服" を、何点か思い切って捨てましたσ(^_^;)


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もう似合わなくなった服との決別作業をしていたら、
過去に出会って別れた友だちの顔が、次々思い出されました。

私は今夏54歳になるのですが、振り返るとこれまでに、たくさんの人と友だちになり、またその関係が終わっていきました。

小学校時代、毎日毎日・・・ほんとに毎日遊んでいた大好きな友だち。

中学の時、同じ釜のメシを食べ、苦楽を共にしたバレー部の同期の仲間。

高校、大学時代、いろいろと 内面の変化が激しかった時期に、つるんで遊び、深い話もできた友人たち。

社会人になってからも同様。勤めた会社で一緒に働いた同僚、あるいは(ママ友は友だちとは言わないと言う人もいるけど)ママ友たちも、人柄が良く、たくさんのインスピレーションを与えてくれ、助け合うことのできた人たちでした。



どの出会いと別れも懐かしく、宝物であることには今も変わりはないのですが、
でも、彼ら彼女らの殆んどとは、 "終わって" しまいました。

もう二度と会うことがないんだろうなと思います。
連絡先は持っているけど、きっとそれを使うことはない・・・。



別のレールを進む別の列車みたいだな、と思います。

それぞれの列車を走らせているレールが、近くにある時は うんと交流する。
でもやっぱり、別のレールなので、いずれ遠ざかる。
いつまでも並走、ってわけにはいかない。

(たまに、同じ列車に乗って人生をやっていく、という縁や、ドラマチックな再会を果たす縁、というのもありますけど・・・)

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若い人たちは「ありがとう、またいつか会おうね」と言って別れていく季節ですね。

私の年齢になると、もう、そういう "別れの季節" は用意されていないから、
自分のスペースが澱んだり固まったりしてしまわないように、定期的に、あえて「動かして風を通す」・・・ということを意識的にやることは大切なんだろうなと思います。


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(C)Dario Sanches

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by kktreasure | 2016-03-10 13:15 | 私の話 | Comments(0)


中学校の同級生から、

「もう何年も、あかりちゃんから年賀状が来ないけど元気?」

とメールが来ました。

年賀状はもう誰にも出していないんだと書いて詫び、近況を報告し合いました。

そのメールの中に私は、カウンセリングルームを運営していることも書いたんですね、驚くかな・・・と思いながら。



そしたら、驚くことなく

「あかりちゃん、中3の時に『将来は心理カウンセラーになりたい』って言ってたもんね」

「ほんとにいつも、誰かの相談に乗ってたね。
 女子だけでなく男子も。後輩も。新卒の先生も。みんなあかりちゃんに相談してたよね」


と返ってきたので、びっくりしてしまいました。



私、15歳でカウンセラーになりたいなんて言ってたのか・・・(記憶なし)。

そして、15歳のくせに 新卒の先生(23歳?)の相談に乗ってたのか・・・(記憶なし)。



前にも書いていますが、私は中学時代の記憶があまりありません。
恐ろしい厳しさのバレーボールの強豪校に越境入学させられて、年休2日でバレーボールに明け暮れる日々だったのですが、学校でも家でも身も心も常に緊張していたため、いろいろと "閉じて" "固めて" いたのだと思います。
バレー部の監督からも、父親(← "星一徹" 状態)からも、随分と殴ったり蹴ったりのシゴキがありましたし、精神的にもキツかった・・・。

にしても「憶えてない」って、すごいな、と思いますけどね。

同級生ほかの証言や証拠の品から、当時私は、なにかと活躍して目立っていたと判っているのですが、それがまた不気味です。じっと凌いでいたのではなくて、明るく活動的にしていたなんて・・・

逃げ出せないから一生懸命やっていたんだろうな、可哀相にな、と思いますね。



でもこの度の新しいネタ、

「中3の時に『将来は心理カウンセラーになりたい』って言ってた」

は、ちょっと嬉しかった。


友人のメールには、

「あかりちゃんが相談屋さんをやるのは必然だね。
 たくさんの人のいろいろな悩みを解決するんだけど、ちっとも大変そうじゃなかったから、この人は 天性の癒し人 なんだなぁと思ってたよ」


そうも書かれていました。

そんなふうに見ていてくれた友人の有り難い眼差しを想い、
とても救われた気持ちになりました。



私の中学時代の思い出の〈画像〉は、白黒で暗く、そして欠けた部分だらけのパズルのようになっていましたが、

そのパズルのピース、それも重要なピースを、40年近く保管しておいてくれた友だちが届けてくれたのだな、と思います。

それがハマり、現在の自分と繋がったことで、その画像には光が当たり、暖かい色が与えられた気がしました


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by kktreasure | 2016-01-25 15:30 | 私の話 | Comments(0)


昨日の「大改造!劇的ビフォーアフター」。

ちらっと途中から見たんですけど、

リフォームを依頼したお宅の "お母さん"(70代でしょうか・・・)が、

リフォーム後のお家に到着するや、
まだ外観を見ただけなのに感動して泣いて感嘆の声を上げ、

玄関から家の中へ入るとまた、随所にいちいち

「よく作ってくださったわねぇ」
「すごい! すごいです」
「私にはもったいないわ」
「残りの人生をこんな所で過ごせるなんて・・・」

と感動を口にしていました。


そして

「この家に相応しい、心の豊かな人生を送りたいです」

と言い、

設計者である "匠" に

「あなたにお願いしてよかったです」

と感謝の言葉を伝えていました。



私、そのご婦人の様子を見ていたら、なぜか瞼の裏ががくんとなったんですね。

あれ?なぜだろう、なぜ涙? と思ったんですけど、

ああ、自分は、こんなふうに喜びを表現したり、
感謝の気持ちを伝えたりできる人が好きなんだな・・・

思えば私は自分の両親から ただの一度も、
「ありがとう」とか「ステキだね」とか「嬉しい」とか、
そういう言葉をを言ってもらったことがなかったけど、

ほんとはそんな言葉を聞きたかったんだな・・・

ということに気づきました。



やっぱり、表情が豊かな可愛らしい人っていいです、周りの人を幸せにします。

私もこんなふうに感謝の思いを素直にしっかりと表現できるおばあちゃんになりたいなぁ

そう思ったのでした(*^-^*)


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by kktreasure | 2016-01-11 16:55 | 私の話 | Comments(0)


先日の記事のとおり、母が骨折したことで、"働き者で几帳面" なはずの母の家が、
思いの外 問題に溢れていることが判りました。


なんでまたこんな不便なことを・・・!

どうしてこんなに膨大な量のモノを仕舞い込んでるんだろう・・・

いつか使うかも、って、使う日は来ないよ・・・


そんな独り言を言いながら、物捨てを続けています。



昨日は、私が小学校に入学する時に買ってもらった、
当時「象が踏んでも壊れない」のテレビCMで有名だった
「サンスターのアーム筆入れ」を発見しました。

懐かしくて声を上げてしまいました。

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入学用品を買いに行ったとき「丈夫なこの筆箱にしなさい」と言われ、
これに決まってしまったんですよね・・・

ほんとは マグネットのフタのついた可愛いピンクの筆箱 が良かったんだけどな・・・

どうして「アーム筆入れヤダ、ピンクの筆箱がいい」って言えなかったんだろう・・・

そういえば私は、一度も「ねだる」とか「ゴネる」とか、しなかったな・・・

貧しい家の長女らしいですね。



しかし「物持ちがいい」では済みません、母は。
実にいろいろな物を、捨てずに持っています。

老人ということもありますが、これは、母の生い立ちによるんだろうなと思います。

母は、中学を出て直ぐに奉公に出たり住み込みで製糸工場で働いたりして、
実家へ仕送りをしていた・・・という人なんですね。

だから、口にしたことはきっとないでしょうけど、たくさんの心細さ、不安を
抱えていたに違いないし、
手にできたものは、大事に大事に使い、そして仕舞っておいたんだと思うのです。

だから、嗤えません、怒れません。



そんなわけで、時々びっくりしちゃう古い物に対面しながら、
慎重に、丁寧に、母が気付かぬように上手に、
きっと二度と使うことも目にすることもないものについては、
コッソリ捨てる作業を続けています??
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by kktreasure | 2015-11-21 20:15 | 私の話 | Comments(0)