「所有しているモノや情報の量」≠「自分の価値や幸せ」
2017年 10月 16日
息子が留学で出て行き、娘(看護師)も、当分(二度と?)実家住まいはしないようだと判ったことが大きいのですが、
いつにない規模の断捨離を決行したいという思いがむくむくと湧いてきてました。
そんな時だったからか本屋で、
いつもはスルーしていたミニマリストたちの著書のコーナーで、
『ぼくたちに、もうモノは必要ない』(佐々木典士・著)という本が目に留まり、読んでみることにしました。
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じつは私、相談室で
「息子のミニマリストっぷりがおかしい」
「なんでも、煩い、目障りだ、と言い始めて困惑しています・・・」
「姉が強迫的に物を捨て始めて数か月、もう姉の部屋には本当に何もなくなってしまった」
・・・と、"ご家族の行き過ぎたミニマリズム" を心配する方からのご相談を何度か受けていました。
その影響もあり、ミニマリズム、ミニマリストについては、ちょっと引いて見ていました。
これは "生まれた時からたくさんの物に囲まれて育った若い世代の極端なありさま" なのだろう、
"一旦、全て手放した状態を体験したい人たちがしていること" なのだろう、
という見方をしていました。
でも、『ぼくたちに、もうモノは・・・』には、大いに共感させられ、結果的に、いつにない規模の断捨離行動に出るきっかけをもらったのでした(もちろん、単身の若者とは違いますから、ミニマリストになろうという話ではありませんが)。
いろいろと唸らされ考えさせられたのですが・・・
まずは、
「ぼくたち人間は5万年前から変わっていないハードウェア」だそうだ、進化していない5万年前のハードウェアなのに、情報もモノも詰め込みすぎている、という話に納得。
「他人の目線を気にして、モノを追いかけ、管理することに大きく割かれる。そうなると本来の大事なことが見えづらくなるのも当然だろう」
それから、
「今までぼくもご多分にもれず、モノを溜め込み、それが自分の価値、ひいてはぼくの幸せにつながると考えていた」
・・・・・・ドキッとしました。
これまで思い切って捨てられなかった(とりあえず取っておいた)ことの理由は、これだなぁと思いました。
「家にいてテレビを見ていても、家から1歩外へ出ても、メディアや広告、本当にありとあらゆるものを通じて、脅迫的なメッセージがぼくたちに送られてくる。
できるだけお金を儲けて貯め込みましょう、より美しくスリムになりましょう、いい学校に入りましょう、快適な家に住みましょう、健康になりましょう、競争して勝ちましょう、もっとファッショナブルになりましょう、成長し拡大しましょう、さらに知識を蓄えましょう、いつか来る危険に備えましょう」
これ、一つ一つは良いことでしょう。「欲しい」は大事。
でも、私たちは、踊らされている、流されている、呑み込まれている。
だから、なんだか苦しい。
「映画監督のトム・シャドヤックはそんな状況をシンプルに喝破した。
『要するに、"今のままの君じゃダメ" というわけだ』 」
・・・・・・これですね。
「今のままの自分じゃダメなんだ」という思い、これが常にあっての「収集」「所有」だったんじゃないかな・・・と。
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私は、普段から散らかさないですし、整然とさせた家に住んではいたのですが、
とにかく容れ物(家)が変に大きいせいで、もう要らないかも、と思ったモノも、処分せずに仕舞い込んでおくことが " できてしまった " のです。
不要になったモノは相当量あって、30年住んだ家には、ちょっとやそっとの気合いでは 立ち向かえないほどの物品が、膨大な数、仕舞い込まれていました。
でももう、自分の人生時計は夕方。
だんだんと小ぢんまりが似合ってきていたと思いますし、とにかくシンプルに軽やかにいきたい、本当に削って削って厳選吟味、気に入った心地よい空間に、「ちょうどいい」感じで過ごしたいと思いました。
不要品の処分の作業は、まだ道半ば(よく、一週間もあれば完了させられるはず、とか言いますが、私の家は無理)。
でも、初っ端、容赦なく分別し捨てようとする強力助っ人のショウコが参戦してくれたため、先ずは洋服と書籍の選別と処分の作業が終わり、弾みがつきました。
まだまだなのに、既に、家のエネルギーは明らかに変わりました。
そして私自身にも明確な変化があります。
これまで、モノのせいで無駄遣いしていたスペースや時間・・・
これに余裕が出てきたことで、
これまで見えていなかったものが見え、気づけなかったことに気づき、
面白い閃きがが増え、行動することが容易になりました。
楽に、自由に、軽々と・・・
これ、すごく嬉しいです
引き続き、作業を頑張ろうと思います
『ぼくたちに、もうモノは必要ない』ありがとう。
ショウコよ、鬼コーチしてくれてありがとう。