カテゴリ:私の話( 40 )   

半世紀ぶりのミツコ   

2018年 10月 18日

私は生まれ育った町に今も住んでいるのですが、きのう、自宅最寄り駅の改札を出たところで、小学校に入って間もない頃に私のことをいじめていたイイダミツコ(仮)を見かけました。


(うわぁ~、イイダミツコだぁ…ガーン 元気で生きてたかぁ…キョロキョロ


イイダミツコは ひとつ年上、特別支援クラスに通う女の子でした。

ミツコは学校からの帰り道、私が友だちと別れて一人きりになって歩く家までの一本道に よく立っていました。

その道を通らないと家には帰れなかったものですから、遠くにミツコを見かけると、私は絶望的な気持ちになりました。



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目を合わさず通り過ぎようとする私に、ミツコは必ず近づいてきて私に絡み、難癖をつけてきたり、ランドセルを下ろして中身を見せろと言ったりしたんですよね。


今思えば ちょっと大柄で目つきが悪かったとはいえ、左足が悪くて何時もひきずって歩いていたし、知能だって普通じゃなく、たどたどしい口調でわけのわからないことを言っているような子でした。


だから、従わなくたって平気だったはずだし、いくらだって逃げられたと思うし、ハッキリ、あっちへ行けとかあんたのお母さんに言いつけるよとか、言えばよかったんですけど…


なんでだろう、とにかく私はミツコが怖くて、一切反抗できず、言いなりになっていたんですよね。

(これ、子どもたちに言ったら「お母さんが? いじめられた? 怖かった? 信じられん!」と言って笑いこけると思いますが…真顔




あるときミツコは、私がランドセルの中に入れていた小銭入れの中から、30円を取り出して帰って行ってしまった、ということがありました。


帰宅して母にそれを話すと、母は私に「これからイイダさんちへ行くよ」と言ったものだから、私は「よし、これでイイダミツコはこっぴどく叱られる。そしてこれからは私をいじめなくなるに違いない。よかったよかった」と思ったのですが…


母がミツコの家でミツコの母親に何を言ったか…

「ミツコちゃんが 娘から30円を借りて行ったみたいなんですけど、返してもらうことはできるかしら…?」

「すいませんね。なんかこの子が取られたとか言うもんだから、ほんと、すいません」


びっくり!?


ミツコ本人は取ったことを認めてるのに、お母さん、なんで したでに出てる? 

なんで謝る? 

なんで「これからも仲良くしてやってね」とお願いしてる?


……ダメだこりゃ。ほんと、ダメだこりゃ。そう思いましたっけ。


その後も大人になるまで、「母は私を庇わない、他人から守ってくれることはない」ということを思い知らされる出来事は幾つも起きましたが、この「イイダミツコに30円取られた事件」は、とにかく衝撃でした。いつまでも忘れられませんでした。



私は40になる頃まで、かなりの生きづらさを感じて生きていましたが、そのことをどうにかしようと考えて取り組み始めた時に よく行き当たったのが、この「母は私を庇わない、他人から守ってくれることはない」(=そんな私は誰にも愛されないに違いない。そんな私に価値はない)という思い込みでした。


何かを達成しても成功体験をしても、たくさんの人が認めてくれたり褒めてくれたりしても、なぜか私はビクビクしていました。いつも緊張していました。


どうやっても、自分はこれでいい、などとは思えず、不安で仕方ありませんでした。

世界を、他人を、何より自分を、「信頼」していなかったんだなぁと思います。



でも昨日、半世紀ぶりにイイダミツコを見かけたことでいろいろ甦りました。


かなり時間はかかってしまったけど、「私は私でいい」「とにかく生きればいい」に辿り着けたんだなぁ私は…、一生懸命やったよね…、と しみじみ思ったのでした。



イイダミツコ、相変わらず足を引きずりウロウロしてました。知らない人に話しかけて避けられてました。


なんだか、寂しそうに見えました…ブタネコ


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by kktreasure | 2018-10-18 14:50 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

言わなくても分かるでしょ? は 無し   

2018年 10月 01日

私の父と母はそれぞれ、小学生、中学生のときに親元を離れ、それ以降は実の親と暮らせなかった人たちでした。

父は養子に出され、母は奉公に出たそうで・・・。




早くに無理やり自立させられて大変だったろうなぁと思うのですが、

独立心、勤勉さ、忍耐力・・・そんな言葉がぴったりな両親の放っている空気が満ちた家で育った私は、かなり小さな頃から、弱音を吐いてはいけない、人に甘えちゃいけない、調子に乗ってはしゃいではいけない・・・というふうに考えて、そう決めて、過ごしていたと思います。


私は長女ですから特にそうですが、妹たち二人も、そういう空気の漂う家の中それぞれに、ちょっと息を詰めるようにして暮らしていましたね。


3姉妹で工夫して、なんとか楽しくしようとしていたとは思いますが。




それから私は両親の口から「ごめんね」や「ありがとう」の言葉を聞いたことが、一度もないんですね。


そう言うと「一度も、ってことはないでしょう?」と言われますが、ほんとに記憶にないです。儀礼的な言葉としてよその人に言うことは普通にあった思いますが、家族に対しては、ほんとに無かった・・・。


精神的に歯を食いしばって生きていたからか、躾けられていなかったせいで身についていなかったせいか、なんか恥ずかしかったのか・・・わかりませんけれど。


あ、褒められたことも無いですね、まったく。

結構 活躍してたと思うんだけどな・・・(苦笑)




とにかく、優しい言葉が行き交うことのない、寒々とした家でした。

暗くて嫌だなぁと思っていました。


今では、「黙々と忍耐強く頑張って生存することが人生」であった両親には、それ以上の豊かな世界のこと…ユーモア、創造、思いやり、交流、感謝、感動、祈り、愛・・・みたいなもののことなどは、そこへ辿り着いていなかったから、ほとんど ”関係がなかった" 、だから仕方がなかったんだ、と受け入れていますが・・・。


そんな二人を両親に持つ私たち3姉妹は、彼らを反面教師にしたかのように、ことさらに、大げさなくらい、ありがとうとかごめんなさいとか嬉しいとか心配してますとか感動したとか・・・そういうことを人に伝える大人になったと思います。


そういう思いをちゃんと伝え合う温かい世界に行きたいという希望を、幼い頃に胸に抱いていたんじゃないかな、3人それぞれに。




私は自分が出会って関わっている大事な人たちに、


こんなことをしてしまって、ごめんなさい。

これをしてもらって助かった、ありがとう。

一緒に居るから大丈夫だよ。

それは素晴らしい、よくやったね、おめでとう。

そんなふうに心配してくれてたなんて、嬉しい。

あなたのそういうところが好き。尊敬する。

ああ幸せだなぁ・・・


そういう言葉を十分に伝えようと心掛けます。

しっかり言えたかな? 足りてるかな? ちゃんと伝わったかな? と気にするのですが、それは そんな生い立ちのせいが大きいです。




同時に、相手からの言葉もしっかり受け取りたいと思います。


そうやって大切な人たちと、ちゃんと伝え合って交流して、関係を大切に維持し、育てていきたいからです。




言わなくても分かるでしょ、は、無しでいきたい私です。


交わって温かい。というのが好きですclover*





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by kktreasure | 2018-10-01 13:05 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

「郷家さんが黙ってると調子狂っちゃう」と言われて考えた   

2018年 01月 15日

お正月に気管支炎になりました。

2週間経つというのに 咳がなかなか収まらず、夜間の咳で安眠できないのが辛いなぁと思って過ごしていたのですが、きょうは、別のことで月に一度通っているクリニックの受診日。

受診ついでに咳のことを申し出て、お薬を貰ってみることにしました。


診察の最後に「先生、別の話なんですが、じつは半月ほど咳が止まらなくて・・・」と打ち明けたのですが、そうしたらPC入力してた先生が、私の方へガバッと向き直って、

医者「なんだ! 気管支炎のせいだったのか!」

と言うのです。
いつになく大きな声だったので、ちょっとビックリしてしまいました。


「なんだ!って、なんですか??」


医者「いやー、郷家さん今日はなんだかいつもと違うな、元気ないな、口数少ないな、どうしたのかな、と思ったんだよ」

医者「なんだ、そうかそうか、納得した! 咳が出ちゃうから無口にしてたのね。ははは、調子狂っちゃうよ、郷家さんが黙ってると・・・」

って・・・。


(えーーー?? なんなの😰?
いつもだって、私そんなに話しませんし、そもそも先生とは10回も会ってないし、先生、いつもPCの方ばっかり見ててあんまり目が合わないから、私のこと わかってないかもとさえ思ってたのに・・・)



・・・と苦笑しながら診察室を出たのですが、
その後 会計ができて呼ばれたら、受付のお姉さんにも言われてしまいました。

女の子4「今日は咳を止めるお薬出てますね。 郷家さん、いつもの元気な感じじゃない なぁと思ってましたけど、お風邪でしたか!」

まただ😨驚く  この人も私を知っていた!

「あの・・・、”いつもの感じ” とは??」

女の子4「いつもは際立って大きい、目立つオーラなんですけど 、今日は・・・なんというか、普通の人レベルでした!」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


似たようなことを二人の人から言われたものですから、クリニックを出て歩きながら、いろいろ考えてしまいました。

若い時は、誰かと会うとき、集団の中にいるときは、自分がどう見られるか、どのように振る舞おうか、ということを常に意識していたように思うのですが、もう今では、いつだって自然にしています(そうなりたいと思って長年 心掛け、できるようになりました)。

だから、病院のような("オーラ縮め気味" にしているはずの)場所でも、先生や受付嬢に「元気な人」と覚えられていた・・・というのは・・・、う~ん、それが「地」ということです。
もう、どこででも「元気な人」と思われているんでしょう・・・



あれ? もしかしたら私、いろんな所で、つい可笑しなことを言っては笑わせてるかも。
そういえばこの間は美容院で助手の子から「じつは郷家さんとお話するのを密かな楽しみにしてるんです、いっぱい笑えるから♪」って言われたな・・・うーん(笑わせてるか?)

ああ、結構あちこちで 名物 になってる気がしてきましたあせる

仕方ないか・・・ぶー



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by kktreasure | 2018-01-15 13:10 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

「頑張ったら しっかり労う」・・・これはセットで☆   

2018年 01月 12日


肩に背中に、重い雪みたいなのが積もり始めたな・・・

重いな・・・

まいったな・・・


大抵は、そう感じたら、ブルブルッと体を揺すって払い落すのですが、

大切なことのためだもの、大事な人のためだもの、ここはひとつ、払い落さず堪えてみよう・・・というときが私にはあります。




屈してしまいそう・・・

萎えてしまうなぁ・・・


そう思いながらも、心が 撓(しな)ってその重い雪みたいなものを背負おうとしているその意思が、我がことながら愛しくなって、

もうちょっと頑張ってみよう、もうちょっとイケるよね、頑張れ頑張れ・・・と・・・




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そうしているとやがて、その重い雪は、すーっと滑り落ちていくか、枝の撓うのが限界にきてビヨーーンと跳ねてドサッと落ちるかして、なくなります。


・・・うんと褒めるんですよね、そういう時は。


私の心はまだまだ柔らかくて強かったね キラキラ

偉かったね、自分 キラキラ




今朝もそんなタイミングを迎えましたので、日帰り温泉に行って、四肢を伸ばして温まり、腕のいいセラピストのお姉さんにマッサージしてもらいました。ソフトクリームも食べました スマイル


「頑張ったら しっかり労う」・・・これは1セットです。


体との信頼関係はとても大事なので、"決して破らない約束" にしています クローバー




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by kktreasure | 2018-01-12 12:08 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

英幸少年の「衣料切符」   

2017年 12月 26日

先週末、父の十三回忌法要がありました。

父は68歳で亡くなったのですが、
お坊さんのお経を聴きながら、もう12年も経つんだなぁ、生きていたら80歳だけど、父は "永遠の少年" だから、お爺さんにはならない運命だったんだろうな… と思いました。


* * * * * *


先日、母の家の断捨離大会をしているとき、小引き出しからこんなものを見つけましため

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『衣料切符』(昭和17〜18年のもの)です。

私はこの衣料切符というものを知らなかったので調べてみましたが、衣料を配給するために政府が発行していた点数制の切符で、この制度は「昭和17年から昭和25年まで続いた」とありました。

父は昭和12年生まれなので、これは5歳になる年の切符です。



英幸少年の衣料切符・・・赤ちゃん



何枚か・・・ネル、晒、足袋などの切符が 切り取られていましたが、大事に交換していたんだろうな、物のなさ はどれほどだったのだろう、と思いました。


きょうだい多数 の 貧しい家で育っていた父は、この後10歳で養子に出されます。

父は強がって「バナナバナナが食べられるなら俺、行くよ。高校も大学も行かせてもらえるっていうし・・・」と "立候補" したと聞いていますが、養父母は尋常でなく厳しくて神経質で、そして温かさのない人たちでしたから、父は、裕福にはなったかもしれないけれどすごく窮屈で寂しい、不幸せな暮らしを選んでしまったことになります。


結局、父は 自分や実の親に対して恩着せがましいことを言う養父母から離れて自由になりたくて、高校を出ると集団就職で埼玉県に出てきました(それ以来、一生を埼玉で過ごしました。だから私は埼玉生まれで埼玉育ちです)。



75年も前の、養子に出される前の名前(苗字)が書かれた衣料切符、何枚か使われた衣料切符・・・

養子に出された時は既に使えなくなっていた切符ですが、父は養子に行く時それを持って出て(御守のように持たされた?)、苗字が変わっても、そして母と結婚しても、その後何度転居しても、それを捨てずに持っていたんですね。

単に捨てそびれたのだとは思いますが、なんとなく、大事な物だから・・・と ずっと捨てずに持っていたような気もして、ちょっと切なくなりました。


* * * * * *


今回この衣料切符が発掘されたことで、私は 父の一生に思いを馳せてみたりしましたが、また、そんな父と歩いてきた母の人生についても「とにかく長い長い年月を、頑張って生きてきたよね」と ねぎらう気持ちになったりしました。

うーん、長いな。
晒とか足袋とかタオルとか・・・そんなものを制限のキツい配給で手に入れていた時代から生きているんだもの・・・

さすがに尊敬します。

それを娘と孫娘が、あれも要らないこれも要らないってバンバンどさどさゴミ透明ゴミ透明ゴミ透明 ゴミ袋に詰めちゃうのは、ちょっと乱暴だな。

せめて作業は丁寧に、敬意を持ってやらなくちゃ、と思ったのでした 花





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by kktreasure | 2017-12-26 12:22 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

生地のど真ん中にクッキーの型を当てたい欲求   

2017年 09月 01日



型抜きして作るクッキーってありますよね。


こういうやつ。



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子どもが小さい頃、よく一緒に作ったものですが、自分自身が子どもだった頃にも、何回か妹たちと作らせてもらった記憶があります。


私は3姉妹の長女なのですが、そういう時ってやっぱり、のして広げたクッキー生地にいち早く型を当てて星だのハートだののクッキー型を抜くのは妹です。


ど真ん中にヨイショ、もう一つヨイショ。


・・・で、やりたがる妹たちに譲ってるうちに、いざ自分の持ってる型を当てようと思った時には、もう既にくり抜かれてる生地の隙間は十分な大きさではなくて、ちょっと欠けたりして・・・


また生地を丸めて伸ばせばいいわけなんですけど、

なんか、いつも、「あ~あ・・・」って。


これ、この間テレビの子供番組でクッキーを作っているシーンを見て、ふと思い出したことです。




私は、いつでも、何にせよ、誰かと居たら、誰かに譲ってしまう気がする。


まだ一つも穴の開いていないクッキー生地の好きな所に型を当てていいんだってことが、どうもわかっていない(笑)


たまにはやってみようかな。

いち早く、いい場所に、ポンと穴を開けてみる・・・、そういうこと。


「私は余ったところでいいです」「余らなかったらそれはそれでいいです」って、

そういうの、もうやめようかな。



今さらやってきた、心境の変化です星



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by kktreasure | 2017-09-01 11:53 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

家系図を眺めて想う   

2017年 08月 14日

伯父が亡くなったことを娘のショウコにLINEで知らせたら、その伯父には殆ど会ったことのないショウコが「その伯父さんって、誰の何だっけ?」と返してきました。


「私の父のお姉さんの旦那さんだよ」と答え、

そうだ と思ってさらに、簡単な家系図を描いて「この人だよ」と矢印入れて送ってみたら、スッキリ理解してもらえましたOK




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数年前にも、「母が元気なうちに聞いておこう、母がいなくなったら二度と分からなくなってしまう」と思い、母に聴き取りをしながら、父方、母方、両方の家系図を描いてみたことがありました著者名


四代しか遡れませんでしたが、母は3親等内の血族、姻族ほとんど全員の名前と生年月を言えたので、おお、凄いもんだな、と・・・。


(あれ、どこにしまっちゃったっけ?blue 後で探そう・・・汗


ショウコにとっては、それが母親方、半分。


もう半分、父親(私の主人)方は、ちゃんとした家で、主人には毎年開かれる「いとこ会」なるものもあり、しっかり繋がっている親戚があるのですが、家系図も立派なものが作られていますので、そちらも OK




自分の父方、母方。

配偶者の方の、父方、母方。


それぞれ、家系の構成員の傾向が大きく異なっている、という方もいらっしゃるでしょう。私のところも そうです。




私については、


父方お爺さん には "調子よくやっている人" が、割といます。

芸事に長けていた人、商売をやっていた人が何人も。


また、家系図づくりの際に初めて知ったのですが、父の祖母がお寺の娘で書道の先生だったのだそう。


お寺かぁ…、とちょっと嬉しく興味深く思いました。一度訪ねてみたいと思っています、家系図持って「私、この図のこの位置にいる者です」と。


父方は、まぁ、繁栄上がるしています。

いとこたちも、一人当たり2~3人、子どもを持っていますので、暫くは滅びないですね。




一方、母方おばあさん は、農民多し。黙ってひたすら耐え忍ぶ系。


「貧しかったので、仕方なくこういう選択をして我慢してきました・・・」という人生を送った人が多いかな。


それから、私の いとこたち を見回すと、特に男子は一人も結婚していませんので、家系的には没落傾向サゲ、先細っています。


私はこちらでは異質ですね、性質がオープンだし、楽天的だし、大人しくないしあせる




…と、「相当異なる 父方×母方 の掛け合わせ →→私ヒヨコ」 なんですね。面白いです。




今年のお盆は、簡易家系図を描いてみたことをきっかけに、

「私は 地球🌎に降り立つ場所として この家を選び、ここから人生を始めたんだなぁ」

ということ、その意味を、あらためて静かに想う機会になりました。




自分は親兄弟、親戚と仲良くやってる、賑やかだ、という人も、

自分は親や親戚とは縁が薄い、縁を切ってる、という人も、

脈々と継がれ繋げられてきた命のリレーの先端にいるんですよね。




あなたのご先祖様たち、ご親戚は、どんな方が多いでしょうか?


父方、母方それぞれから、どんな要素を受け継いでいると感じますか?






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by kktreasure | 2017-08-14 13:10 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

この1週間の 楽しかったこと☆嬉しかったこと☆   

2017年 08月 08日

リボン 『黒柳徹子×田川啓二 SU・TE・KI!展』@日本橋高島屋


徹子さんと、ファッションデザイナーでビーズ刺繍のカリスマ、田川啓二さん。

『徹子の部屋』がご縁で交流があるというお二人は、ともに「素敵な物、美しい物が大好き」。

そんなお二人が集めたコレクションの数々を展示する催しです。


着物、布地、工芸品、アンティークなど、「なんて美しいんでしょう!」と溜め息の出る作品の数々。


私は、刺繍好きで、"シノワズリ" にどうにもこうにも惹かれるのですが、これはいずれも過去世由来です、きっと。

昔は、どうして自分は 刺繍モノ や シノワズリ様式の装飾に こうもドキドキするんだろう・・・と不思議でしたが・・・。


会場は大変な混雑でしたが、私はひとり 嬉しくなって華やいでウットリしてましたラローズ13


徹子さんは超・高波動ですから、販売されていたグッズは身につけていると運気が上昇しそうです御守

私も何点か購入しましたラローズ9




家 リクシルのショールーム


家の浴室とトイレのリフォームをしようと決め、リクシルの新宿ショールームへ。


私、職歴のひとつに「住宅展示場のアドバイザー」というのがあるのですが、「住まい」もまた、なぜか子どもの頃から大好きな分野でした。


私は、小さい頃の趣味が、戸建て住宅やマンションの広告(新聞の折り込みチラシなど)を切り抜いてファイリングして眺める・・・というもので、変わってるねと言われていたのですが、とにかく好きなんですね。


だから、住宅設備のショールームという場所は私にとって、アミューズメントパークみたいなもので、ココロ浮き立つ場所なのです。


「ああ、一日いられるドキドキ 」「若かったらここに勤めたいくらいだ」・・・そんなふうに思いながら、長い時間滞在しました。




ヒマワリ 誕生日を祝ってもらう


生誕55周年、です(笑)

朝起きたら、主人からの祝花ブーケがテーブルに置かれており、

昼には娘(たまたまお休み)がホールケーキ持って駆けつけてくれ、

夜は子ども二人(あ、息子、いま日本に帰ってきています)が二人で作ってくれた料理で祝ってくれましたカンパイ


幸せな55歳の誕生日になりましたプレゼント




そんな1週間でした。


誕生日前後1週間は、一年で一番願い事が通る時期といいますので、大事に過ごそう、上げていこうと思っていましたが、嬉しい、楽しい出来事が続いて良かったです星





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by kktreasure | 2017-08-08 11:07 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

「気づけば遠くへ来たもんだ」は、あのトラウマ体験のおかげ   

2017年 04月 14日

中学時代のバレー部の顧問、"鬼監督" のK先生に、駅でばったり会いました。

このK先生は、体育教師、校長として私の住む町で長年教師をやっていた人で、少し前まで私の夢(悪夢)の 最多出場者 だった人です。



私には、父親(バレーボール協会に所属、市のスポーツ振興に関わっていた人)がこのK先生と知り合いだったせいで、当時K先生が率いていたバレーの強豪校に、越境入学してまで通わせられ、バレーボールを3年間やらされた…という悲しい過去があります(辛すぎて、今でも中学時代の記憶が一部飛んでいることは、以前書きました)。

親と監督がグルですから、私は逃げ出すこともできず(ほんとは一度逃げ出したのですが、連れ戻された後は "公開処刑"、結局、続行させられてしまいました)、

身体も気持ちもギリギリの(いや、超えてた)、地獄の日々を送ったわけなんですね。




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あんなにシゴかれて、殴られて、背負い投げされて、気を失えばキツケのためにバケツの水かけられて、人格否定に近い罵倒も受けて…

そんな部活動を、12~15歳の私、よく耐え抜いたな…と思います。


厳しすぎる練習も酷い体罰も当たり前の世界でした、今だったらあり得ないですね。

いや、当時でも、市の大会、県大会なんかで接した他校の生徒や先生は、引いてましたね、ドン引きです。相手チームをビビらせる効果はあったけど、なんたって、中学生の女の子が、巨漢の監督に、張り倒されちゃう、吹っ飛んじゃうんですから。


あ、それに近い話、平野ノラさん(少女時代、強いバレーチームにいたんですね) もテレビで語ってましたね。体罰はなかったんでしょうけどね。




まさに「トラウマ体験」をしてしまったため、その後長きに渡り、たびたび夢に出てきたわけです、バレーボールも、K先生も。

夢の中でも私は、ダメな選手でダメな人間で、苦しむんですよね…、あぁやだやだ。


この夢は、30歳過ぎても、40歳過ぎても、繰り返し見てました。

見なくなったのは40代でセラピー受けたりエネルギーワークを習得したりした後のことです。


数年前の同窓会で先生に会って話をした時、なんだかこの人、変わらないんだな、狭い世界にずっと居続けているんだな‥‥と思ったのですが、心の中で、「もう脅威ではないな」とやっと自分に言ってあげられて安堵したことを覚えてます。




そして今回。

ますますK先生は 小さく なってました。

多少痩せたとはいえ身長180数センチある大男で、眼光も鋭く、パッと見 おっかない系の人ではあるのに…。


面白いものだな、自分が変わったせいだな、と思いました。


きっと先生は長年同じ場所で同じことを続け、普通にゆっくりと年をとった。

一方、私は、うんと苦しんで傷ついたおかげで、「旅」に出た。


傷ついたところを癒す旅。

まだ隠れてる自分を探す旅。


そうしてずいぶん違う場所へ行くことが出来たんでしょう。


先生が 「なんだかお前、上品なご婦人になったな」 と言い、「ママさんバレーやってないのか? SやF(元チームメイト)はまだ活躍してるぞ」 なんて言うから、困って苦笑してしまった。


(先生、私はもうそういう世界にはいないです。)




最近、「気づけば遠くへ来たもんだな」とか、「まぁ、よくやってきたよね」とか思える出来事が、続いています。

ちょっとしたご褒美のようだし、見えない修了証を手渡されたような気持ちになることもあります🌸




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by kktreasure | 2017-04-14 08:32 | 私の話 | Trackback | Comments(0)

分からないけど分かろうとして 心を寄せる人になりたかった   

2017年 03月 15日

最近、母とテレビの情報番組を見ていたた時に何度か、

「ああ、私は小さい頃、母のこういう言葉に哀しくなっていたんだな…」

と改めて気づくことがありました。


それは、伝えられる隣国の様子を聞いて「あんな国に生まれなくてよかったわ」とか、

映し出された震災後の東北の町の様子を見て「ここ(埼玉)は海がないから安心だ」とか、

そういう言葉でした(別に、私に向けられる暴言というわけではなく…)。


もう呆け始めている老人の言う言葉なので、ひとつひとつ咎めたり窘めたりすることもないですし、母は別に悪い人ではありません。


野良猫の暮らしを気に掛けるし、傷んだ植物の世話をして復活させるし、困った人が目の前に居たらなんとかしようと動くでしょう。「善良なちゃんとした人」です。


ただ、物理的、精神的に自分から遠いところにある人や場所のことを、想像することが出来ないだけです。


でも私は子どもの頃から 母の視野や物の考え方や時に無神経な言動に気づいていて、今思えば、それらがいちいち哀しかったり痛かったりしたのだと思いました。


無垢、とか、無神経、は、子どもが親のそれに気づいても どうしようもないですから、当時はそういうものか…と受け入れていましたし、逆に自分の感受性や共感能力を、めんどくさい困ったものだと思っていましたが…。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



昨晩はひとりで、録画されていたあるテレビ番組を見ました。

息子が「君の名は。」や「新海誠監督」をキーワード入力していたために自動録画されていたニュース番組だったんですが、

その中で新海監督は、『君の名は。』の起点になったのは、じつは 震災の後に訪れた名取市の閖上地区、というお話をされていました。


被災地で実際に暮らしていらっしゃる方々の感じたことを自分自身が分かるわけでは全くない。

それでも 『君の名は。』 は、"何かを取り戻す映画" にしたいと強く思った。


「ここは自分の町であったかもしれない」、「自分はここで生まれ育ったかもしれない」

「もし自分がここにいたらどうしただろう」、「もしも自分がここにいたあなただったら…」と思った。

その強い思いが、「もしも自分があなただったら…」という入れ替わりの映画を作ろうという気持ちに繋がった。


そう語ってらっしゃいました。




上に書いた母の "正直な" 言葉と、新海監督のそんな感性や眼差し。


どちらも、私の インナーチャイルド を刺激しました。


いまだに 「リトルあかり女の子」 は、 感じ、 学んで、 成長しているのだなぁと思います。




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Photo by David Shub





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by kktreasure | 2017-03-15 08:05 | 私の話 | Trackback | Comments(0)